バンドの話

 

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初めてのバンド

 

 僕が「バンドを組みたい!」と思ったのは中学1年生の頃でした。当時ビートルズに夢中になり、ああいうギターバンドをやりたいと思っていたのです。

 

 初ステージは中学一年の「お別れ会」、つまり進級で、もうバラバラになるのを惜しむ会でした。

 しかしバンドの編成は、ガットギター2人に歌という、まるっきりフォークの編成だったのです。もう1人のギターの奴がフォーク好きで、選曲もソフトな曲調のものでした。


 僕はフォークには興味がなかったのです。生ギター1本で「…かしら」「あなたが…」「わたしは…」という女性の言葉でしみじみ歌っても、全然面白くなかったのです。

 ベースの響き、ドラムのリズム、激しいギターにシャウト、美しいコーラス、そんなバンドがやりたかったのです。

 しかし世の中はフォークブームで僕の中学校でもロックを聴くものは異端児扱いされていたのでした。どうしてみんなフォークばかり聴いて、ロックを馬鹿にするのかな?と不思議に思いました。

 僕にはロックの激しい音がとにかく快感だったのです。


 とうとう自分のバンドの話が具体的になったのは中学3年生に進級する直前でした。メンバーは6人、ほとんど他の中学校の連中でしたが、家は近所だしこれはいける!と思いました。

 しかし、メンバーが練習に来ないのです。いつも集まるのは僕、浦、キヨハシの3人だけ。しかも僕以外の2人は超初心者。

 浦はエレクトリック・ギターさえ持っていませんでした。ドラムのキヨハシも音楽とは無縁の生活をしていて、ただ暇だったから参加しただけでした。


初代ドラマー・キヨハシ


 でも僕の情熱はそんなことでは納まりません。練習は僕の家でやりました。楽器は僕が全部揃え、本格的に録音が出来るように機材も揃えました。

 さあ練習だ!手取り足取り教えました。…しかし現実はそんなに甘いものではなかったのです。

 

 浦とキヨハシは、想像を絶するほどのヘタクソでした。

 

 キヨハシはエイトビートの基本すら叩けない、浦はダウンストローク(上から下に弾く)しか出来ない、しかも弾いてはいけない弦まで弾くから「ボワ〜ンボワ〜ン」というロックとはかけ離れた音が常に鳴っているのです。


「ボワ〜ン」浦


 これでロックが演奏できるわけがない…。しかし、僕は頑張りました。「簡単な曲からやろう」と言って選んだのは「およげ!たいやきくん」だったのです。

 あれならダウンストロークで「ボワ〜ンボワ〜ン」でも大丈夫。ドラムも「ズンタ・ズンタ」だけ叩ければ平気です。

 浦にB7のコードを教えるのに1時間を費やします。キヨハシにリズムを解説します。「これでいいのか?」また間違いを1時間かけて直します。

 彼らは、楽器を弾きながら歌うなんて出来ないから、僕がベースを弾きながら歌いました。何度も何度も練習を繰り返しました。


 ある日僕は提案しました。「レコーディングしてみよう!」。2人は「レコーディング?!」と盛り上がっています。手順を説明しました。「このオープンデッキは4トラックと言って多重録音が 出来るんだ。」2人はキョトンとしています。「後から色んな音を重ねられるんだ」やっと理解。

 

 マイクを何本かセットして、ギターとベースはライン録り。歌も演奏も一発録音しました。それから僕がキーボードと歌をもう1度重ねて、最後に全員でパーカッションを録りました。

 相変わらず浦のギターは「ボワ〜ンボワ〜ン」だしドラムも不安定だったけど、初めてバンドで録音するのは楽しかったのです。 

 

 パーカッションの途中でキヨハシがふざけて、浦の「イッシッシ」「やめろ〜」という笑い声 が入ってしまったけれど、僕には気になりませんでした(今聴いても笑います)。

 このマスターはまだ取ってあって、何年か後に浦の歌を追加してリミックスをしました。


 その後はたくさんの上手い連中と知り合って、バンドも格好良く なりましたが、高校に上がってからもたまにこの3人で演奏しました。今テープを聴いても、信じられないようなヘタクソさだけど、その楽しさだけは伝わってきます。


 現在の彼らですが、浦は楽器歴は20年を越えたというのに、いまだにあの頃とテクニックが変わっていません。

 いや、「シャンシャカシャンシャカ」という風に弾けるようになったから、少しは上手くなったのかな?

 

 キヨハシは手拍子も出来ないことが発覚し、上手いドラマーにその座を奪われました。しかし基本的に暇だから、練習によく遊びにきて、音程のない歌を歌って帰っていました(キヨハシには音程という概念がないのです、いやホントに)。        

 これが、僕の記念すべき初めてのヘタクソバンド、ザ・ルソバーズなのです(まだ解散はしていません)。

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アルバム発売 

 1983年、夏のことです。当時のメンバー、トモホがある情報を持って来ました。「自主制作のカセットを置いてくれる店があるぞ!」。

 僕たちは色めき立ちました。自分たちの曲が買ってもらえるなんて!「俺達もアルバムを作って、その店に置いてもらおう!」即決でした。

 僕たちの演奏は、中学生の頃から必ず録音していて、そのテープは色々な学校で回し聴きされ「面白いバンドがいる」と評判になっていたのです。


 今まで録音したものは山ほどあります。その中からどんな曲を選ぼうか?たいした時間はかかりませんでした。

 A面は一発録りのバンド形式、B面は多重録音した曲を集めよう。一発録りの方は受けを狙って、下手くそで面白いものばかりを収録しよう。メンバーの意見は一致しました。


 バンド名は、冗談で付けた「ザ・ルソバーズ」をそのまま使うことにしました。昔、「ザ・リガニーズ」というバンドがあって「・」を取ると「ザリガニ」という言葉が出てきます。

 

 そこで僕が「じゃあ俺はざるそばが好きだから、ザ・ルソバーズ」と言って大爆笑になったことがあったのです。

 いまだに名前が残っているわけで、名前というのは慎重に付けなければいけないと思い知らされます。


 選曲が始まりました。A面の一発録りの方は、信じられないほど下手くそな演奏のものや、浦芳彰が滅茶苦茶な英語でシャウトしているもの等、思いっきり受けを狙って選曲しました。

 B面の多重録音の方は、緻密に出来ている物を中心に選びました。ア・カペラ、アドリブで出来た曲、メーターが振り切れるほどの叫びが入っている曲、50分テープにギッシリと詰められたサウンドは、どれを取っても面白いものでした。


 アルバムタイトルは、ビートルズのアメリカデビュー盤から取って「ミート・ザ・ルソバーズ」に決めました。

 ジャケットもパロディーにしようということになり、僕がメンバーの似顔絵を描いて、ハーフシャドウ(顔の半分が影になっている)を付けました。解説書もみんなで作りました。


 ここまでいい感じで来ると、また盛り上がってくるものです。「レーベルを作ろう」「ファンクラブを作ろう」ということになり、レーベルの名前は「新寺レコード」に決まったのです。

 

 当時、区画整理でかつてKENNYの住んでいた家の住所が「新寺」に変わり、悲しい思いをしていたのです。いくらお寺の多い街といっても「新寺」じゃそのまんまじゃないか!自虐的なギャグで付けられた名前でした。

 

 ファンクラブの名前は「ザ・ルソバーズ・死ねクラブ」。これは当時、僕が入っていたビートルズのファンクラブ「ザ・ビートルズ・シネクラブ」のパロディーで付けた名前でした。これも自虐的な名前の付け方です。


 アルバムの編集とジャケットの制作が終了したら、ファンクラブの会報を作ろうということになりました。制作したのはKENNY、ヒロシ、浦、工藤の4人で、徹夜しながら文章を考え、下書きをし、完成させました。

「新寺会報」と名付けられたB5サイズのチラシを、カセットを置いてくれる店に張ってもらおうということになりました。

 

 さて、完成したカセットを持って、僕たちはレコード屋に行きました。付けた値段は360円。「契約は7対3でいいですか?」お店の人が言います。これは置いてもらう代わりに、売り上げの3割をお店が取るという事です。「はい。それでいいです。」「このチラシを張らせて貰ってもいいですか?」「どうぞ」簡単に事は終了しました。


 その後、全然売れなかっただろうと思っている人も多いのではないですか?しかし僕たちの音楽は買ってくれた人の心に、ちゃんと届いたのです!

 まず、ファンレターが来ました。そこには鉛筆の綺麗とは言えない字で「テープを聴いて、大ファンになりました。みんなに自慢したいので、ぜひお返事下さい」という内容が書いてありました。その後も違う少年から電話が来ました。「セカンドアルバムを楽しみにしています」。少年は言いました。

 

 どうだ!俺達の音楽は面白いだろう!メンバーも最高の気分だったに違いありません。インディーズという言葉さえ知らなかったあの頃に販売された、わずか50本弱の僕たちのファーストアルバムは、今どこで眠っているのでしょう…。

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ホコテンでの出会い

 僕は長い間、原宿のホコテンの近くに住んでいました。

 歩いてすぐの距離でしたが、僕はさほど興味もなく、行ったことはありませんでした。


 ある日、何となくテレビを見ていたら、原宿のホコテンの特集をやっていました。

 番組では、奇妙なオジサンがインタビューに応えていました。

 服を前後逆に着て、口笛を吹いて、奇妙な踊りをクネクネ踊っているオジサンでした。

 

「どうしてお洋服を前後反対に着ているのですか?」

「いや、目立つと思って・・・」

 

 僕は、大変面白くそのインタビューを見ていました。

 そして次の日曜日には、ホコテンに行って、このオジサンと会ってこようと思ったのです。


 そして日曜日、ホコテンにそのオジサンはいました。

 

「出張演奏、楽団との合同演奏いたします」と書かれた手書きのポスターがありました。楽団…バンドの事らしい。

 口笛は、とてつもなく上手い!そして、クネクネとした妙な踊り。僕は笑い転げてそのステージを見ました。

 

 休憩時間になったらしいので、僕はオジサンに話しかけました。

「ここにはもう何年も前から来ているんです。ここは本当に自由だからね。死ぬまでここに来るよ」

 オジサンは、照れながら話してくれました。

 

「オジサン、また来週来るよ」と約束したその瞬間が、僕の長いホコテン通いの始まりだったのです。

 オジサンは皆に「口笛おじさん」と呼ばれていました。


口笛おじさん


 口笛おじさんの所に通うようになってしばらくした頃、隣で演奏しているバンドが目に付きました。

 どうやら、全曲アドリブらしく、ダラダラと演奏していて、誰も立ち止まらないようなバンドでした。

 友人と「あんな風に演奏してたら、誰も見ねえよ」などとさんざん悪口を言っていましたが、そのうち友人は帰ってしまいました。

 

 しかし信じられないことに、夕暮れも間近な頃、そのバンドのノリがどんどん良くなり、僕は目を見張ったのです。

 大勢の人が集まりだし、そのうち一人の外国人が踊りだすと、何人もの人間がそれに続き、そこは即席のダンスフロアになったのです。素晴らしい演奏でした。

 大きな拍手と共に演奏が終わり、僕は後かたづけをしているメンバーに声をかけました。

 

「すごい良かったよ」

「あ、ドーモドーモ!今度新宿でライブがあるから見に来てよ。ウッヘッヘ!これチケット。あげる」

「バンド名、どこかに書いた方がいいよ」

「あ、そうだね。ウッヘッヘ!

 

 僕は、そのチケットを持って帰りましたが、ライブは忘れて見に行きませんでした。チケットにもバンド名はありませんでした。


 それから数ヶ月、ホコテンをブラブラしていたら、前の方から見た顔が…。そう、いつか見た名前も知らないバンドのギターのヤツだったのです。ギターを背中に背負っています。

 

「おう!」

「あ、おっす!どこかでやってるの?」

「口笛おじさんの所で」

「じゃあ、俺もやろう。ウッヘッヘ!

 

 奇妙な笑い声のギタリストは「山田」という名前でした。

 その日から、毎週ホコテンで会うようになりました。


ウッヘッヘ!山田


 山田は、自分のバンドが上手く行かなくなっていました。ホコテンでめぼしいメンバーを集めたいという話です。

「一緒にやらない?」「いいよ」即決です。

 

「何人かスカウトしたから、今度スタジオに入ろう」山田は言いました。スタジオに行ってみると、見たことのある顔が…。

 何度かホコテンで見た「ほっかむり」をして妙な踊りを踊ったり、タンバリンを叩いていた女の子がそのスタジオにいました。

 口笛おじさんの所で話をしたこともあった女の子でした。

 その人は普段は女優をしている人でしたが、スタジオでは、アドリブが得意なメンバーばかりで、大いに盛り上がりました。なにしろ、1曲が2時間でも平気なのです。

 メンバー4人のうち、3人が偶然矢野顕子さんのファンだった事にも驚きました。ホコテンの演奏は、このメンバーが中心となったのです。


 ある日、口笛おじさんの隣に、また新しい顔が現れました。フリフリのドレスを着て、座って化粧をしたりしています。

 僕らは「役者志望で、度胸試しに来ているのかなあ?」と話していました。何をするでもなく、シートにピンクのテーブルを置いて座り、鏡を見たり、くつろいだりしているのです。

 

 話してみると、女装するのが趣味で、ホコテンに遊びに来ている、と話してくれたのでした。

 それから毎週、フリフリのドレスを着て現れるようになったこの人の名前は「キャンディちゃん」でした。

 次の週から、もう一緒に活動するようになりました。


キャンディちゃん


 奇抜なファッションばかりのホコテンでも、僕らは特に目立ちました。口笛おじさんは、ズボンの上からトランクスを履いて、穴の空いたチューリップハットをかぶっていました。

 演奏していても、観客は怖がって遠巻きに見ている事が多かったように思います。


 ホコテンがなくなってからも、僕らは連絡を取り合っています。インターネットでキャンディちゃんや山田、浦ともやり取りが出来るようになりました。相変わらず、みんな独自の活動をしています。

 

 もしも僕が「口笛おじさんのインタビューを見ていなかったら」と考えると、人との出会いの不思議さを感じずにはいられません。

 またいつか、このメンバーで何か活動がしたいと思っています。どんな形での活動かはわからないですが、やりたいです。

 そのためには、祈ることはただ1つ「現在年金で一人で暮らしている口笛おじさん、長生きしてよ」という事なのです。

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